相武山 妙法院のブログです。
12月2日(土)、穏やかな冬晴れのもと、有志の方々と古都鎌倉の散策を楽しみました。当山では近年、12月の初めに鎌倉の歴史と文化に詳しい酒井俊克さんにご案内頂き、日蓮大聖人ゆかりの鎌倉を歩いています。今年は手術明けの私の体調を考慮頂いたのでしょうか、日蓮大聖人が草庵を結ばれたと伝わる松葉が谷の旧跡を巡る平坦で穏やかな散策コースでした。
参加者は9時半に鎌倉駅西口に集合。初冬らしい澄み切った青空でしたが、思いのほか寒くはなく、散策日和のなか八幡宮参道の段葛へ。ここで酒井さんより散策コースに着いての説明をうけました。その後、小町大路を抜けて蛭子神社へ、ここは歴史の古い神社でこの地域は宗祖にゆかりのある地との解説。続いて北に歩みをとり、いつの頃か定かではないものの「日蓮辻説法の地」と伝わる場所に向かいます。伝説の地はすっかり整備され、その南側には新たに「鎌倉日蓮堂」なるものが新築されていました。私は50年ほど前から幾度も訪ねている伝説の地ですが、宗祖の遺徳顕彰のその変遷には驚きます。
その後、小町大路を下って琴弾橋へ、その名称の由来をうかがい、滑川をわたって大町方面へ。小町大路の東側の道を南下すると間もなく比企が谷の地に至ります。日蓮宗本山の妙本寺山門では比企一族のいわれと宗祖と大学三郎のご縁についての説明があり、その後、小道を南下。桟敷の尼のぼた餅伝説の常永寺の前を通り、八雲神社を過ぎて北条政子ゆかりの安養寺へ。安養寺の西裏手から一路宗祖ゆかりの松葉が谷旧跡へ、旧跡の伝説を伝える寺院は「妙法寺、安国論寺、長勝寺」の三ケ寺。
入場料を払って各寺院の境内に入り(長勝寺は無料)、酒井さんより丁寧な説明をうけました。断定はできないものの宗祖はこの地域に草案を結ばれ、一切衆生救済のため法華弘通に精励しておられたことがわかります。在りし日の宗祖を親しくお偲びする一時でした。
その後、浜門流の古跡実相寺、伊豆御流罪伝説の妙長寺、辻の薬師堂、辻説法伝説の本興寺を巡り小町大路から鎌倉駅へ。旧跡巡りの途中では鎌倉の地勢や古道、橋や井戸などについて解説をうけました。
散策の時間は例年より少し短く約3時間、芦川さんの歩数計では15,000歩だったそうです。日蓮大聖人への思慕を深める散策。参加の皆さまと一緒に私も完歩することができ有り難く感謝しています。
相武山 山主
2023年12月27日
~正しい認識を求めることが大切~
令和5年最後の日曜法話会は11月19日(日)午前11時の開催。
今回のテーマは奥が深いものです。解説の時間もかかのではないかと思い、法話会の趣旨は仏教の基本的姿勢をお伝えして本題に入りました。
テーマである「思い込みに気づく」ということは、「それは思い込みでは?」と考えてみる必要性があることを指摘しています。思い込みの定義は「合理的な根拠がなく、あるいはしばしば誤った根拠に基づいて、それと自覚せずに断定・確信・前提としている心の働き」といえます。したがって、思い込みに気づくということは、言葉を換えれば「正しい認識を求めること」になります。
また、あらゆる事物事象は変化して止まない存在ですから、その変化を認識できないということは、仏教的には八正道の第一「正見」を求めないすがたであり、迷いの世界に陥ることに通じていることを説明。
はじめに10月に始まった「イスラエルとパレスチナの戦争」や「日本経済の停滞と凋落」などから、私たちが無意識に「思い込み」に陥っていることがあることを指摘しました。
《イスラエルとパレスチナの悲惨な戦争》
10月7日、イスラム武装組織ハマスによるイスラエル攻撃から43日。
戦争の現状は悲惨で深刻。
「人命を救済する病院にもイスラエル軍が攻撃。その理由はイスラム組織ハマスの軍事拠点であるということ。病院は機能停止状態に陥っている。また、ガザ地区で安全な場所などどこにもない。イスラエルはハマスの組織完全排除をねらう。イスラエル側の死者は約1,400人。ガザ地区パレスチナ側の死者は12,000人以上。イスラエルとアラブ諸国の緊張が高まっている」ことを説明。
世界各国の姿勢は、「ハマスのイスラエル攻撃(市民殺害、人質拘束)を批判し、イスラエルの自衛と人質解放、軍事拠点の侵攻を支持する欧米などの国々。イスラエルの侵攻を批難し、パレスチナ擁護を支持し、戦闘停止を主張するアラブなどの国々。中立的立場から戦闘停止をうったえる国々。」という3者が存在しています。
イスラエル支持者とパレスチナ支持者には互いに思い込みが存在しており、それぞれの立場と考えから主張が展開されています。それは歴史的・地政的な見解であり、民族・宗教・文化的な見解と多岐にわたるものです。イスラエル支持派は「イスラエルのユダヤ人は明確な国土を持つことなく、長く流浪と厳しい迫害の歴史を余儀なくされてきた。」と主張し、パレスチナ支持派は「パレスチナ人は第2次大戦後、突然、自国にイスラエル国家が建設されて甚大な被害を被り、その後もイスラエルから迫害を受けている。」と主張していることを説明。
《日本経済の停滞と凋落》
日本の経済力と国力の現実を冷静に理解する時、国民の多くが思い込みに陥っていることに気がつくでしょうと以下を説明。
日本は果たして世界の先進国か?
(GDP国民総生産から・・・)
アジアの経済大国か?
(一人あたりGDPから・・・)
アジアの国々からの留学生や技能実習生の希望者?
(魅力的とはみられていない・・・)
★日本経済新聞(2023年10月24日)の報道を紹介。
『日本のGDPはドイツに抜かれ世界4位に(IMF予測)』 。
日本のGDPは長期的に低迷を続けている=ロイター
日本のドル換算での名目GDP(国内総生産)が2023年にドイツを下回って4位に転落する見通しであることが国際通貨基金(IMF)の予測で分かった。足元の円安やドイツの高インフレによる影響も大きいが、長期的な日本経済の低迷も反映している。
23年は日本が前年比0.2%減の4兆2308億ドル(約633兆円相当)、ドイツは8.4%増の4兆4298億ドルとなる見込みだ。1位の米国は5.8%増の26兆9496億ドル、2位の中国は1.0%減の17兆7009億ドルだった。
2000年の時点では日本の経済規模は今より大きい4兆9683億ドルで世界2位だった。00年初の円相場は1ドル=105円程度。当時のGDPはドイツの2.5倍、中国の4.1倍だった。10年に日本を抜いて2位の座についた中国は、23年には日本の4.2倍となる見込みだ。
第一生命経済研究所の熊野英生氏は「足元では金融政策の差により円の対ドル相場が下落していることが影響しているものの、長期的には日本の成長力の低下が背景にある」と指摘する。
『1人当たりの名目GDP』
それぞれの00年からの名目GDPの伸びを自国通貨建てに直すと、中国が12.6倍と突出する一方で日本は1.1倍にとどまる。伸びはドイツの1.9倍や米国の2.6倍を大幅に下回る。物価変動を除いた実質GDPでみても日本の伸びは1.2倍と米独よりやや低い。
1人当たりの名目GDPでは、日本は23年に3万3949ドルとIMFのデータがある190の国・地域のうち34位となる見込みだ。1位はルクセンブルクの13万5605ドル。日本は英国やフランス、イタリアなどより低く、35位の韓国(3万3147ドル)に肉薄されている。
2000年時点で、日本の1人当たり名目GDPは同187カ国・地域のうちでルクセンブルクに次ぐ2位の3万9172ドルだった。23年と00年を比べると日本の1人当たりGDPは13.3%減っており、日本経済の低迷を映す。
内閣府は2001年3月の月例経済報告の中で、日本が緩やかなデフレにあると初めて認定した。家計が貯蓄を優先したり、企業が新たな設備投資を抑制したりして経済全体にマイナスの影響を与えると警鐘を鳴らした。日本は生産年齢人口(15〜64歳)も95年から減り続けている。
熊野氏は「持続的な賃上げと、企業の稼ぐ力を高めるための生産性向上が急務だ」と指摘している。
以上のことから、我が国が経済大国でありアジアの大国という認識は、戦後の荒廃からめざましい高度経済成長を成し遂げ、世界第2位の経済大国となった昭和の時代の思い込みであることを説明。日本経済の停滞と凋落を冷静に理解することの大切さをお伝えしました。(つづく)
(詳細は相武山だよりのウェブ動画を御覧ください)
相武山 山主
2023年12月25日
11月12日(日)午後2時30分より秋季法門研修会を開催。
日目上人会に引き続いての研修会には12名が参加聴講されました。妙法院では春夏秋冬の四季それぞれに法門研修会を開催しています。そこでは1時間半から2時間ほど、法華宗日興門流の教えと信仰について学びます。それは法要や行事での法話では時間の都合上学び合うことが難しい御法門を、時間の余裕を持ってじっくりと学び、法華経と日蓮大聖人の教えをより正しく理解しようという願いによるものです。
今回の秋季研修会では『寺泊御書』を中心にした法門研修。御書システムの解題をもとに約50分ほど、龍ノ口法難から佐渡流罪にいたる日蓮大聖人の足跡をふまえ、その教義展開について解説。
この御書は佐渡にわたるために寺泊の地にて船待ちされていた宗祖が檀越の土木殿に宛てた書状。その内容は法華弘通による法難は法華経や涅槃経に説かれるとおりであり、もとより覚悟の上との心境を述べられています。
はじめに『涅槃経』に説かれる「贖命重宝」の法門について。
天台大師・妙楽大師の釈に依れば「命」とは『法華経』のことで「重宝」とは爾前経及び『涅槃経』のことであり、大事な『法華経』という命を助けるために重宝たる爾前経によって贖うという、『法華経』の絶対優位を示す法門であることが解説。また、天台大師こそ釈尊一代の教相を正しく判釈された唯一の人師であり、諸宗の学者は自義の誤りに執していることを指摘。殊に真言宗及び華厳宗は本師釈尊並びにその説教を相対化し、『大日経』は『法華経』に勝れるなどと邪義をたてていると強く批判されています。
次に「或る人、難じて云く」と、宗祖へ向けられる批判について。
宗祖への批判は「弘教の在り方」について、『勧持品』の深位の菩薩を気取って麁き義を用いるのは、分不相応なことで大難に値うのは自業自得であるとの難。「教相ばかりを強調し、成仏論たる観門が示されない」ということであるが、日蓮は法華経勧持品を身で読んでいるのであり、法華経が優れていることを知りながらどうして説相どおりに弘通しないのかと批判されています。
さらに、勧持品・不軽品の色読の大切さを強調され、勧持品と不軽品の教えは通底しており、法難を受けながらも法華弘通に励む日蓮はその両品を色読する者であり、日蓮は不軽菩薩であり、また勧持品の八十万億那由陀の菩薩の代官であるとの気概が示されています。
御書システムの解題では、「本状は短い書状でありながら、『開目抄』に繋がる重要な法義が集約されているとともに、後『観心本尊抄』によって開示された、当時の宗祖の法義的課題等が示されている点で重要な御書である」と述べられていることを紹介。
解題に基づいての解説の後は、参加者全員が寺泊御書の現代語訳をリレー式に拝読。原文ほどではないにせよ、難しい仏教用語や固有名詞などに手こずりながら、皆さんゆっくりと味わい深く読まれていました。不慣れな音読ですから、読めない字があったり、間違ったりと、少し苦労したかもしれませんが「御書に親しむ」の実践です。きっと大聖人さまの御照覧にあずかったものと存じます。
その後の質疑応答では「四箇の格言」などについて解説。夕暮れの時間が近づく午後4時、1時間30分の秋季法門研修会は終了。
相武山 山主
2023年12月23日
11月15日は日興門流第三祖日目上人の祥月の御命日忌。
当山では12日(日)午後1時から御報恩の法要を執り行いました。日目上人会は略して目師会と称され、また、かぶ御講ともよばれています。当山でも御宝前に目師会ゆかりの蕪をお供えし、参詣の檀信徒の皆さまと倶に、法華経要品を読誦、献香、唱題と如法におつとめし御報恩申し上げました。
法要後の法話は「日目上人の御一代について」。御書システムの辞書を参考にその御生涯を解説。ご誕生から出自、修学から出家のいわれ、日興上人、日蓮大聖人との師弟のあゆみ、求法と弘通の御生涯をお伝えしました。ことに遺された申状に見られるように為政者への諫暁は数度に及ぶといわれ、生涯を法華弘通にささげられたことを門流末弟は銘記しなければなりません。
日目上人は建武の新政という時局の展開を迎え、高齢と体調の不良にもかかわらず京都をめざされましたが、美濃国垂井の地で御遷化されました。大石寺門流には「広宣流布の暁には日目上人が再誕される」という言い伝えがあり、稚児の小僧を大切にするという教えもありますが、それは目師の法華弘通の功績を称えた伝承でしょうか。
また、法話の結びには、天奏のお供をされた日尊上人(京都・要法寺開山)、日郷上人(保田・妙本寺開山)は後に門流の発展に大きな足跡を遺された方であることも紹介しました。
相武山 山主
2023年11月25日
ー 平和な社会は一人ひとりの心から ー
中東での深刻で悲惨な戦争の現状と遠因などについての解説に続いては「戦争と平和の基礎知識」。
★平和とは?
「戦争や紛争がなく、世の中がおだやかな状態にあること。また、そのさま。心配やもめごとがなく、おだやかなこと。また、そのさま。」のことです。《デジタル大辞泉》
「平和とは戦争や暴力がなく、社会が安定している状態のこと。国際関係においては戦争が発生していない状態を意味している。元来、戦争は宣戦布告に始まり平和(講和)条約をもって終了する。これにより平和が到来するとされてきた。国際連合憲章の下では、一般に、自衛権や安全保障理事会の決定に基づくもの以外の武力行使は禁止されており、伝統的な意味での戦争は認められなくなっている」ことを説明。
★戦争はなぜ起きるのか?
「戦争が起こる原因は多岐にわたる。一般的には政治的な問題や経済的な問題が引き金となることが多い。また、民族や宗教、領土などの問題も戦争の原因となることがある」ことを説明。
★戦争を防ぐために
「政治的な問題や経済的な問題を解決することが必要。また、教育や文化交流などの手段を通じて、人々の理解を深めることも重要。さらに、国際社会が協力して、平和を維持するための枠組みを作り上げることも必要。これらの取り組みが進むことで戦争を防ぐことができる」ことを説明。
★戦争を停止し平和をもたらすために(一般的な指摘)
戦争は人々の生命、財産、文化、環境などに深刻な影響を与える。平和をもたらすためには以下が必要となる。
『寛容さと理解』人々はお互いを尊重し、寛容である必要がある。異なる文化や価値観を理解し、受け入れることが重要。
『教育』平和についての教育は、人々が平和的な方法で問題を解決するためのスキルを身につけることができる。
『紛争解決』紛争解決の方法を学び、紛争を平和的に解決することが必要。
『国際協力』国際社会は、平和を維持するために協力する必要がある。国際機関やNGOなどが、平和維持活動や人道支援活動などを行っている。
『貧困削減』貧困は紛争の原因の一つであり、貧困削減は平和につながると考えられる。
『武器管理』武器管理は、武器の不正流通や違法使用を防止するために重要。
以上、平和をもたらすためには、寛容さと理解、教育、紛争解決、国際協力、貧困削減、武器管理などが必要であり、さらに人々が平和のために積極的に行動し、努力することが必要であることを解説しました。
小結としての「学ぶべきこと」については、『戦争やテロの根本原因を識ることが大切。人類の歴史は戦争の歴史ともいえる。侵略戦争やテロは人や組織や国家などの欲望の追求によって発る。欲望追求と怒りのためには暴力的行動も辞さず大きな犠牲も躊躇しないという愚かな思考が戦争を招来。他者の存在と主張をまったく尊重しないという歪んだ姿勢が問題。平和と共存を求めてきた人類の歴史を理解できない愚かさ。三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)に翻弄される人々や組織、国家の有り様が戦争の原因。戦争を回避し平和を構築するためには、一人ひとりの心に「平和を希求する意識」が確立されなければならない。』
とお伝えしました。
《平和を祈ろう》
テーマの「平和を祈ろう」について、「戦争は三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)から生まれることを知る。平和は各自が意識し、その維持に努めないと脅かされる。平和を常に意識し言動によって表現する。祈りは心のはたらきだが、その実践が大切(仏神を信ずる人はその対象に、対象がない方も森羅三千の法界に)。平和な社会は一人ひとりの心の持ち方によって維持される。」ことを述べて第一部「世相」を終了。
《仏教に親しむ》
第一部の予定時間がかなり超過してしまいましたので、第二部「仏教に親しむ」では日蓮大聖人の立正安国論のお言葉を紹介するばかりとなりました。大乗仏教、ことに法華経の教えは現実世界での具体的な苦悩からの救済を願い、自分と他者が倶に救われることを願う仏教であることを日蓮聖人の言葉からお伝えしました。
『立正安国論』には
「倩微管を傾け聊か経文を披きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神は国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。是れを以て魔来たり鬼来たり災起こり難起こる。言はずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず。」とご教示。
続いて
「帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来たりて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈に驚かざらんや豈に騒がざらんや。国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。 汝須く一身の安堵を思はば先づ四表の静謐を祈るべきものか。」とご教示です。これらのお言葉から平和を維持できなければ自身の安寧も保たれないことがわかります。
レジメでは他に『白米一俵御書』『曾谷殿御返事』『減劫御書』『諸経与法華経難易事』を現代語訳つきで紹介しましたので、帰宅されてからじっくりと拝読されることをお勧めしました。
前の大戦以来、我が国は長く平和を享受してきましたから、平和ボケとまでいわれることがありますが、実はそんなに安全安心な環境ではありません。冷静に見渡せば戦争状態を維持している北朝鮮、北方領土をめぐるロシアとの緊張、尖閣諸島の領有を主張して領海侵犯を重ねる中国、また、竹島問題でも韓国と争いがあります。近隣諸国との関係は厳しいものがあるのです。さらに台湾問題や南シナ海での中国と東南アジアとの領海争いは危険水域にあるといっても過言ではないでしょう。
不安を煽るつもりはありませんが油断は大敵、努力なしに平和は維持されないことを理解しなければなりません。
10月度の日曜法話会では、未だ止まぬロシア軍のウクライナ侵略戦争、そこに中東、パレスチナの武装組織ハマスとイスラエルの戦争が勃発という事態を直視し、時に当たり参加聴聞の皆さまと一緒に「平和」について考えた次第です。所詮、戦争は個人や組織、国家の三毒から発り、平和は他者への尊重と慈悲心によって維持されることを学び、平和を希求する仏教徒としては、これからも油断なく平和を祈り、その輪を広げることに努めて行く想いを新たにしました。
相武山 山主
2023年11月22日
ー 平和な社会は一人ひとりの心から ー
10月度の日曜法話会は14日・15日に奉修した御会式の関係から月末の29日(日)に開催。中東(世界の火薬庫といわれる)で10月7日、パレスチナの武装組織ハマスによるイスラエル攻撃から、パレスチナのガザ地区で双方が激しい戦争に突入。その悲惨な状況はリアルタイムで連日世界中に報じられていることから、法話会のテーマは率直に「平和を祈ろう ー平和な社会は一人ひとりの心からー」としました。
《長期化するウクライナ戦争》
はじめに、昨年2月からのロシア軍のウクライナ侵攻とその現状について解説。長く続く戦争にはつい慣れが生じてしまいそうになるのが人情ですが、それは実に愚かなこと。戦争の起こりをよく知って、その現状から眼をそらすことなく平和への祈りと願いをもち、各自ができるだけの支援を心がけなければならないと思うのです。
2022年2月からの戦争は1年8ヶ月に及び、その「甚大な戦争被害、深刻な死傷者、家族の喪失、インフラと経済の破壊、国土の荒廃」は眼を覆うばかり。ウクライナはロシア軍を国外に追い出そうと死力を尽くして反攻していますが終戦の出口は未だ見えません。
2023年10月28日時点で、「ウクライナでは少なくとも1万1000人の民間人が死亡と推定(国連人権高等弁務官事務所)。ウクライナから国外へ避難した人は約800万人を超える(同国連難民高等弁務官事務所)。ウクライナの経済的損失はこの時点で約1兆ドルに上ると推定(世界銀行)。」と報じられています。
ロシア軍の侵攻はウクライナだけでなく、世界中に大きな被害をもたらしていて、エネルギー価格や食料価格の上昇など世界経済への影響は深刻です。
ロシア軍とウクライナ軍の戦死者の数は両国ともに未公表ですが、ロシア軍の戦死者はウクライナ軍の発表で27万7660人、米政府の推定で18万9500人~22万3000人、米政策研究機関「戦略国際問題研究所」の推定で最大約7万人。戦略国際問題研究所の推定では、ロシア軍の戦死者が第2次世界大戦後に関わった全ての軍事作戦の合計戦死者数を超えたとしていますから驚くばかりです。他方、ウクライナ軍の戦死者の数は約12万人、米政府の推定で7万人~12万人といわれています。戦闘で命を失う兵士の数は平時には想像もつかないほどの数であり、その死を悼み悲しむ家族・親族は数え切れません。
2023年10月28日現在、ウクライナ国内には「完全に生命の安全を保障される場所はない」といわれています。ロシアとウクライナは双方ともに戦争を停止したい思いはあるのでしょうが、引くに引けない状況のようです。戦闘の長期化については「両軍とも戦争で勝利するために、引き続き戦闘を続ける意欲がある。戦争の長期化によって、両軍とも戦争に慣れ、戦闘を続ける能力を高めている。」といわれていることを説明。世界に大きな影響を与えているロシアのウクライナ侵略戦争の終結が難しいことをお伝えしました。
《止まぬ戦火》
中東パレスチナのガザ地区で武装組織ハマスとイスラエルの激しい戦闘が始まりました。きっかけは武装勢力ハマスがイスラエルの国境を越えてイスラエルを急襲。多くのイスラエル人を殺傷し、さらに多数の人質を取ったことによります。そのためイスラエルは容赦なくガザ地区に侵攻、パレスチナ人を大量に殺戮して報復し、徹底的にハマスを壊滅する作戦を展開しています。
その経緯について以下「朝日デジタル」の報道から解説。
『パレスチナ自治区ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスは7日、イスラエルに対する大規模攻撃を始めた。大量のロケット弾発射に加え、数十人の戦闘員がイスラエル領内に侵入し、民間人らを襲撃している。ガザ地区はイスラエル軍が封鎖しており、この規模の「侵入」は極めて異例だ。
ー略ー
商都テルアビブやエルサレムを含む広い地域で空襲警報が鳴り響くなか、ハマスは声明を発表し、「敵が説明責任を果たさずに侵略を続ける時期は終わった」として、攻撃に踏み切ったと述べた。米紙ニューヨーク・タイムズは、この日はユダヤ教の祭日で、攻撃は「前触れなく始まった」と報じた。また、ガザからの攻撃としては「ここ数年で最大規模」とした。
イスラエル軍は、報復としてガザ地区を空爆した。カタールの衛星放送局アルジャジーラが報じたガザ市内からの映像では、街の複数箇所で黒煙が立ち上っている。イスラエルの報復攻撃によるものとみられる。
イスラエルと、ハマスをはじめとしたパレスチナ武装勢力の間では、これまでも軍事衝突が繰り返されてきた。21年5月には両者の大規模な衝突が11日間続き、双方で270人以上が死亡した。
一方、昨年末にはイスラエルで史上最右翼と評されるネタニヤフ政権が誕生。パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区の併合を訴える極右政党が政権入りして以降、より強硬な対パレスチナ政策をとってきた。AFP通信によると、イスラエル治安部隊による「対テロ作戦」やパレスチナ側の襲撃で、今年に入り、少なくともパレスチナ人247人が死亡、イスラエル側でも32人以上が死亡。昨年以降例年以上の犠牲者が出ており、イスラエルとパレスチナの緊張は高まっていた。(エルサレム=高久潤、カイロ=武石英史郎)
次に、紛争の原因を知らなければその解決について論じることはできませんから、「なぜイスラエルとパレスチナの紛争が絶え間ないのか?」について、以下、『朝日新聞デジタル「そもそも解説」』から「紛争の歴史」について略述しました。
★イスラエルとパレスチナは、なぜ対立しているのか?
イスラエルは1948年に建国。欧州などで迫害されたユダヤ人が、祖先の土地に国をつくる運動を始め、移住した場所がパレスチナだった。建国に伴い、パレスチナ人(アラブ人)は故郷を追われた。
反発するパレスチナ人をアラブ諸国も支援し、イスラエルとの戦争が繰り返された。パレスチナ民衆によるインティファーダ(対イスラエル蜂起でも、双方に多数の犠牲者が出た。
★今回のハマスの攻撃が第4次中東戦争と重ねられている理由?
第4次中東戦争は73年10月6日、エジプトとシリアによる奇襲で始まった。イスラエルはユダヤ教の祭日中で、不意打ちにあって劣勢を強いられた。反撃に転じて約1カ月で停戦に持ちこんだが、緒戦で辛酸をなめた記憶はイスラエル国民の間で語りつがれている。
今回の攻撃は、50年前とほぼ同時期の祭日に起き、イスラエルが兆候を察知できていなかった点で通じる部分がある。ただ、占領したパレスチナを監視下に置きながら「奇襲」を受けたことは衝撃をもって受け止められている。
★両者が和平を試みたことはあったのか?
1993年、イスラエル政府とパレスチナ解放機構(PLO)は、仲介したノルウェーの首都オスロでの協議を経て、米ワシントンのホワイトハウスで「オスロ合意」に調印した。イスラエルと、独立したパレスチナ国家が共存する「2国家解決」を目指すという方向性が打ち出された。
ただ、パレスチナ人が住んでいた土地にユダヤ人が力ずくで住宅などを建設してしまう入植の問題や、双方が首都と主張する聖地エルサレムの帰属など、難しい課題は「将来の交渉」に委ねられた。
★交渉に進展は?
双方による襲撃事件や軍事衝突が後を絶たず、破綻してしまった。パレスチナ自治区は、パレスチナ自治政府が治めるヨルダン川西岸地区と、ハマスが実効支配するガザ地区に分裂。ハマスはイスラエルの存在を不正とし、自治政府の主流派ファタハとは一線を画して武装闘争を重視する。イスラエルは2007年にガザを封鎖した。米国が仲介する和平交渉も14年から中断している。
近年は、パレスチナを支援してきたアラブ諸国とイスラエルの関係改善が進んでいた。パレスチナ問題が置き去りにされ、ハマスは不満をつのらせていたとみられる。
(エルサレム=高久潤)
以上の解説を通してパレスチナとイスラエルの紛争の原因と現状を正しく知り、世界の人々が叡智と勇気を持って戦争終結と平和の維持に努めることが大切であることをお伝えしました。(つづく)
相武山 山主
2023年11月20日
~道心はいずこから~
太古の昔、人類はさまざまな意味で弱くもろい存在でしたから、自然に自らを支え育む存在に敬意を払い、怖れ敬って来ました。それが宗教の原型といってもよいでしょう。その後の人類の歩みにも宗教は功罪両面にわたって大きな足跡を残して現在に至っています。他方、現代では文化文明の発展や科学の進歩、政治システムや生活スタイルの変遷、宗教教団の堕落や魅力の欠如などによって、宗教が軽視されたり疎んぜられることも多くなってきました。
我が国は歴史や文化の上から大乗仏教ゆかりの国です。しかし、仏事や儀式、習俗や慣習となってさまざまな仏教由来の文化や思想は存在していますが、人々の日々の生活に溶け込んでいるとは言い難い様相です。したがって、仏教徒という自覚をもち、信仰生活を大切にしている方は少数派といっても過言ではありません。
また、冠婚葬祭やクリスマスなどの姿を見ても、仏教やキリスト教を中心とした宗教や信仰を用いることはあっても、その時だけ、形だけというのが実態で、その教えや信仰を肯定して敬うようなことは少なく、逆にカルト宗教や新興宗教などの愚かな言動やトラブルを見て、宗教そのものを忌避したり偏見を抱くことの方が多いように思えるのは残念な世相です。このような姿は宗教本来の崇高で尊い世界を伝え切れていない私たち日本の仏教信仰者の無力さを示してもいます。発憤して精進を重ねて行きたいものです。
《支え育んでいる存在を識る》
私たちは誰一人、「自分だけで生きている」ということはいえませんし在り得ません。自分という存在は両親の生命を継いだものであり、人生を歩むためには、数え切れないほどの人々のお世話になっています。また、天地自然の恵みと運行に支えられ育まれている存在なのです。
人間は自らの限界や有限性を識ることによって初めて生命や人生、社会や自然に謙虚な心を持つことができます。他方、何でも思い通りにできる、やれると考えている人、それが幸せだと思いこんでいる人、我が身の言動や振る舞いを反省しないような人が謙虚な心を持つことは難しいものです。
謙虚の押し売りをするつもりはありませんし、謙虚な生き方を貫くことで傲岸不遜な方などから軽んじられることがあるかもしれませんが、それでも冷静に人生や社会、環境や自然の営みに眼をこらせば謙虚にならざるを得ないのが事実です。また、謙虚な心は穏やかな人生、楽しい人生、たしかな人生、そして生死を超えた世界への安らぎももたらしてくれます。
前述のように人類の誕生と倶に原始的な宗教性は存在していたようですが、人類が歴史を積み重ねるうちに世界中に多くの宗教が誕生し展開され今日に至っています。宗教にはそれぞれに教えや価値観がありますが、通底しているのは「自分自身を支え育んでいる存在がある」という認識ではないでしょうか。その存在をキリスト教やイスラム教などでは神と称して敬愛し、仏教では法(ダルマ)もしくは仏・菩薩と称して尊崇します。その他の宗教でも同様に信仰の対象として敬っています。
「自分の力だけで生きている。己の智慧才覚で生きている。頼るべき確かなものなどない。信仰など心の弱い人がするものだ・・・」などと傲慢な心には仏神への信仰などが芽生えようがありません。
しかし、誰もが生老病死は免れませんし、自然災害や人的災害、事故や戦乱もいつ我が身に降りかかって来るかもわかりません。現実に被らなければ実感として考えられないというのは当然ですがやはり想像力が大切です。善につけ悪につけ、想像力は人生の智慧であり大きな力となるものです。
想像力の最たるものは自分自身を支え育んでいる存在を識ることではないでしょうか。私たちが人としての生命を頂戴したのには両親の存在があります。また、その両親にも両親がいて、遡れば人類の誕生や地球の誕生、宇宙の誕生までたどることができます。さらにその生命の誕生と維持継続には無量無辺のはかることのできないものが存在しています。宗教はその根本的存在を指し示している教えといえるでしょう。
前に述べた、仏法(仏の覚られたダルマ)や仏・菩薩、キリスト教やイスラム教などの神は、眼で見てわかる、ふれてみてわかるというものではなく、信じなければ観ることも感じることもできない存在です。これは仏像などを崇拝する仏教よりもキリスト教やイスラム教などの方が顕著といえるでしょう。
昔から俗に困った時などには「南無三(三宝尊、仏宝・法宝・僧宝に帰依します)」と唱えたり、「助けてください仏さま、神さま」と闇雲に言葉が出ることがあります。その姿に顕れているように、私たちが謙虚になり、信仰心を発す時は困った時や自分の有限性に気づいた時が多いものです。稀に信仰心や向学心から仏教に目覚める方を見かけることはありますが、一般的には悩みや苦しみを契機として、貧困や病気、事故や災害などに直面して信仰心を発すことが多いように思います。それはとても自然なことで、日蓮大聖人の「病によりて道心は起こり候」とのご教示の本意もそこにあると思うのです。
また、仏道への志(道心)は今世と来世、二世に安らぎと悦びをもたらすものです。道心のように謙虚で敬虔な心がなければ、人生や世相を「苦楽、喜怒、悲喜、好悪、利害、得失、損得、功罪、吉凶、栄枯、盛衰、明暗、晴雨、可否、強弱、・・・」などと対立的に観るばかりで、対比するものの根源にある絶対一元の世界の豊かさとおもしろさに気づくことはできません。
日蓮大聖人の『立正安国論』には「汝、信仰の寸心を改めて実乗の一善に帰せよ・・・」という言葉がありますが、どのような事態も心の持ち方一つで大きく様変わりするものです。あらゆる事物事象は変化して止まないのですから、けっして一時の事態を断定して落ちこむことのないように注意したいものです。私たち仏教徒は自身の有限性と諸行の無常を謙虚にみつめ、我慢・傲慢の心を調えて道心を起こし、日々の生活に仏法(仏の覚られた心身を支え育む存在)の智慧と功徳を味わって行きましょう。
相武山 山主
2023年10月28日
○不軽菩薩の振る舞い
この末法の法華経の行者としての振る舞いについては、釈尊の過去世の菩薩行を説いた法華経『常不軽菩薩品第二十』に、不軽菩薩の故事をもって明かされています。
そのあらすじは、遙か昔、威音王仏の滅後像法時代に一人の修行者が出現し、四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)の人たちを行き会うたびに合掌礼拝して、「我れ深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」との二十四字を口に唱え讃歎する但行礼拝を行じます。
この菩薩は経典読誦等の通常の修行者が行う修行をせずに、ただ礼拝のみを行じたわけです。しかし、増上慢の四衆はその礼拝を受けて逆に怒ります。そもそも授記は仏のみ行うことが出来ますから、礼拝のみの修行しかしないこの無智な菩薩の虚妄の授記に侮辱されたと怒ったわけです。 そして四衆は悪口罵詈さらには杖木で打って瓦石を投げるという暴挙に至ります。これに対して菩薩は決して怒らず、迫害にあっては遠く逃げ去り、先ほどの二十四字を唱えながら礼拝を行じたので、四衆はこの菩薩を「常不軽」(バカの一つ覚えのように「私は常に軽んじません」と言い、礼拝しか出来ない能の無い奴)と軽蔑の意味を込めた名を付けたわけです。
この四衆から迫害を受けながらも但行礼拝行を続けた不軽菩薩は、命終する時に空中から威音王仏の『法華経』の偈を聞いて信受し六根清浄を得て、その結果延びた寿命の間に広く『法華経』を説きます。そして自分を迫害した四衆をも救ったと故事は終わります。最後にこの不軽菩薩が過去世の釈尊自身の姿であり、成仏の因行であると明かされるのです。
この不軽菩薩の二十四字には、一切衆生には仏性が備わり、敬うべき対象である。また差別無く全ての人々が菩薩の修行を実践すれば必ず仏となることができると述べられています。ですから但行礼拝行は法華経の平等思想たる一仏乗の教えと実践を表しているわけです。
中国天台宗の祖、天台大師智顗は『法華文句』において不軽菩薩は心に「一切衆生の仏性がある」ことを信じ、身にあらゆる人への礼拝行なして、口には「我れ深く汝等を敬う」との言葉を唱え、身口意の三業相応して、不軽の礼拝行をなしたと述べられています。
不軽菩薩はこの但行礼拝行のみを行って、法華経を聞いたり、説いたわけではありませんが、命終の際に法華経の偈が聞こえてきたと言うことは、不軽菩薩の振る舞いそのものが法華経の精神に適っていて、自然に法華経の教えを自得したことを意味しています。ですから不軽菩薩の振る舞いそのものが法華経の行者の振る舞いといえるのです。
○不軽菩薩と大聖人
大聖人様は不軽菩薩の唱えた二十四字が妙法蓮華経の五字と同義であり、但行礼拝行は折伏行と同行であって、不軽菩薩と大聖人様は共に法華経の行者であると仰せです。そして『聖人知三世事』に「我が弟子等之れを存知せよ。日蓮は是れ法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に」と仰せになられているように、末法の濁悪な時代に、法難迫害を忍受しながらも、逆縁毒鼓の折伏行をもって妙法の五字を一切衆生に下種結縁すべく法華経の行者として、不軽菩薩の跡を継いでいるのだと理解するよう、大聖人様は私たちに仰せなのであります。
○法華経の行者の生き方
これまで法華経の行者について種々申し上げてきましたが、大聖人様は『崇峻天皇御書』にて「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞ひにて候ひけるぞ。」と仰せです。
不軽菩薩の但行礼拝の振る舞いこそが法華経の行者の実践すべき修行というわけです。つまり絶対平等の下、あらゆる人間を尊重し、自他共に成仏の境界に至れるよう精進することで、それが人の振る舞いであり、法華経の行者の振る舞いであると仰せなのです。
世間を広く見てみますと、現在ジャニーズ事務所の人権問題や、今年のノーベル平和賞を受賞し、今なお投獄中のイランのナルゲス・モハンマディ氏の人権問題、また昨年から続くウクライナ戦争や現在戦火が広がるイスラエルのガザ地区など、人の生命や人権、それらを侵害、蔑ろにするニュースが連日報道されています。
現代に生きる私たちは日蓮大聖人様の弟子檀越として、法華経に説かれる平等な世界、つまり人には皆違いがありますが、その違いを互いに尊重しながら、誰もが自分らしく尊厳をもって生きることが出来る社会を目指して、どのような働きかけが出来るのかを考えなければならないと思うのです。
この尊重をするということは相手の全てを認めるということではありません。失敗をしたり過ちを犯した人、その行為に対しては、やはり物事の是否を問うことは大事です。ですが、その根底には必ずあらゆる人の人権を認め、尊重するというお題目の精神がなければならないと思うのです。
私たちは末法の荒凡夫ですから、他者を好き嫌いや都合で判断し、相手を軽んじたり、蔑ろにしてしまうこともあるでしょう。ですが、自分を尊重してほしいのであれば、相手も尊重されるのが道理です。自分がされて嬉しいことを相手にして、自分がされて嫌なことは相手にしない。それが人の振る舞いであると私は思います。ですから、いじめやパワハラなどのハラスメントをしてはいけないわけです。
人は感情の動物で、心に善悪の両面あるのが私たちです。自分の思い通りにならない感情・心ですが、悪い感情に振り回されないよう唱題行に励み、自身の身口意の三業をより良い方向へ整え、普段から自分の周りの人を尊重して、法華経の行者たらんと法華経の教え、お題目の精神を実践して参りましょう。
そして法華経の行者としてお題目の精神を実践する場は、信仰の場はもちろんのこと、それぞれの与えられた環境である学校や職場、家庭等の普段の日常生活の場です。一般に信仰をするというと信仰の場のみを想像しますが、いわば信仰の場は練習として、日常生活の場が本番である言っても過言ではないと思います。
三業の説明の時に申し上げましたが、私たちの信心は御本尊様の前に座る時や寺院参詣等の信仰の場だけではなく、普段の生活に生かされていなければ、信仰をしていない人と何ら変わらない振る舞いとなってしまいます。さらにその振る舞いが法華経に背くものであっては、大聖人様の門弟とはいえないと思うのです。
ですから、いかに普段の生活の中で実践できるかということです。だからといって練習を疎かにしてはいけません。練習していなければ本番で力が発揮出来ないように、信仰の場でしっかりと唱題に励み、寺院参詣して仏法を聴聞し、大聖人様の教えを学んで、一歩一歩信心を深めていくことによって、実生活の中で、人生で法華経の教え、お題目の精神を実践できるようになるのです。
そして現代は信教の自由が保障されていますから国家権力から法難迫害を受けることはまずありませんが、人生は一切皆苦、辛いこと苦しいこと様々な壁が常に立ち塞がり、思い通りにならないのが人生です。私たち大聖人様の門弟は、そのときに いかに法華経の教えを胸に、お題目の力を頂きながらその問題を超克できるかが試されているのです。
○法華経の行者たる想いを胸に
最後になりますが、ここ数年は新型コロナウィルスの感染拡大のため、全国の寺院・布教所では様々な活動が自粛をよぎなくされました。今なお払拭できたとは言えませんし、コロナ禍前とかなり状況が変わってしまいましたが、本日の御会式を契機として志しを新たにして法華信仰を深めていって頂きたいと思います。
大聖人様は『諌暁八幡抄』に「末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此れなり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ。」と仰せであります。門弟である我われは大聖人様の激励の言葉に応えるべく、法華経の行者たらんとの誓願を胸に、上求菩提・下化衆生を掲げる菩薩道を歩み、お題目の精神を自分の人生に。そして社会に。実践して参りましょう。
本日は日蓮大聖人様御会式御正当法要にあたり、「法華経の行者として生きる」と題して法話を述べさせて頂きました。ご清聴、誠にありがとうございました。
相武山 執事
2023年10月26日
本日は日蓮大聖人様御会式御正当法要、誠におめでとうございます。
まだまだ若輩者ではございますが、本日の御会式にあたり「法華経の行者として生きる」と題して少々法話を述べさせて頂きます。どうぞ楽な姿勢でご聴聞下さい。
○御会式の意義について
皆様すでに御存知と思いますが、御会式は、弘安五年(1282年)十月十三日武州池上の地で御遷化遊ばされた日蓮大聖人様の、そのご命日忌に報恩謝徳の真心で奉修する法要です。殊に富士日興門流では末法の法華経の行者である大聖人様を「末法下種の仏」と仰ぎ、「滅・不滅、常住此説法」の深い意義を込めて奉修致します。
○法華経の行者
さて私たちは日蓮大聖人様を末法の法華経の行者と拝するわけですが、この「法華経の行者」とは法華経に説かれる教えをそのままに修行し、実践して成仏をめざす人を指します。
大聖人様は『撰時抄』にて「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」と仰せられ『開目鈔』や『土木殿御返事』等、様々な御書に自身が法華経の行者で有ることを自覚し、宣言をされています。法華経には「この経を仏滅後護持弘通する者は法難迫害に遭う」と説かれていますが、実際に様々な法難迫害に耐え、一切衆生救済のため妙法を下種された大聖人様は、まさに末法の法華経の行者としての御生涯を歩まれたのです。
また大聖人様はご自身だけでなく、竜口法難の際に宗祖と共に腹を切らんと覚悟された四条金吾や佐渡流罪中の宗祖を鎌倉から訪ねられた日妙聖人、そして熱原の法華講衆等の弟子檀越へ、「あなたも法華経の行者である」とその信仰心を讃嘆されています。
大聖人様の弟子檀越はそれぞれ置かれた環境、立場は様々ですが、『十章鈔』には「南無妙法蓮華経と申す人をば、いかなる愚者も法華経の行者とぞ申し候はんずらん。」(全集1275)と仰せになり、賢者愚者、貴賤差別関係無く、お題目を唱えることで法華経の行者となることが出来ると仰せになっております。
私たちが法華経の教え、お題目を信仰するということは、大聖人様や先達の弟子檀越のように「法華経の行者」の境界へと至り、成仏を目指すためなのです。
○身口意(しんくい)の三業(さんごう)
この法華経の行者について「南無妙法蓮華経と申す人」と仰せですが、これは身口意の三業にわたってお題目を受持するという意味です。身口意の三業とは、人間の一切の行為を身体と口と心に分類したもので、身体的な行動、言葉を発すること、心であれこれと思う心の働きです。この三つの働きは別々にあるのではなく、互いに関係し繋がっています。また、三業には善悪があり、苦楽の結果をもたらします。
では、お題目を身口意の三業でお唱えするとはどういうことかと申しますと、身をもって法華経の教えを実践すること、生き方・振る舞いが法華経の教えに適っていること、お題目を一心に唱えること、そして法華経の教えを心から信じるということです。この三業が互いに背かず一致することを三業相応といい、この状態がお題目を受持するということになるわけです。
また、三業は互いに影響し合いますから唱題によって信心が深められたり、また順番があるわけではありませんから、信心から唱題を始める人もいれば、お題目を勧められて信心を始める人もいるでしょう。どちらにしても、いずれは三業相応してお題目を受持することが大事なのです。
この三業が常に相応し、お題目を受持できれば法華経の行者であると名乗れるわけですが、私たちは末法の荒凡夫ですからその状態をなかなか維持できません。時にはどれかが欠け、三業が一致しないこともあるのが私たちの存在です。そもそも、自分の心や身体、口を完全に理解し、コントロール出来ていないから、私たちは悩み苦しむわけです。そのような存在の我々が法華経の行者の境地にいたる為には、お題目を信じて唱題に励み、振る舞いを正して精進していくことが肝要となるのです。
この身口意の三業の中で、心の働きというものは目には見えません。心は見えませんから、私たちは自分が思っていることや伝えたいことは、言葉と行為・振舞をもって相手に伝えます。反対にその人がどのような人なのか何を考えているかを判断するためにはその人の発言・行為をみて判断していくわけです。
一般的に「人を判断するとき、その人の行動を重視しなさい。」といわれます。口から発せられた言葉は大変大事です。しかし、簡単にデタラメや嘘を言うことも出来るのが口です。では、行動や振る舞いはどうでしょう。口を動かすことと比べれば嘘をつきにくい、本心が出やすいのが行動です。例えば美辞麗句を並べたところで粗野な振る舞いを続けたり、親が子を大事と言いながらも虐待を加えたり、無関心であればどうでしょう。どちらが本心だと思いますか?信心も同様です。如何に法華経のお題目を唱えていようとも、暴力的で他者を差別するような法華経の精神とかけ離れた振る舞いをして、果たしてお題目の信仰をしていると言えるでしょうか。
大聖人様は法華経を口に唱え、心に堅く信ずることは勿論のこと、法華経の教えを実践する「色読(身読)」を重視されています。私たちは唱題に励み信心を深めると同時に法華経の教え、お題目の精神を自らの人生に活かし、実践していくことが肝要だと思うのです。
○末法の法華経の行者とは地涌の菩薩
それでは実践するべき法華経の教えについて申し上げますと、法華経に一貫して説かれる教えとは平等思想たる一仏乗の教えであり、それは菩薩の教えとなります。だれもが法華経を信じて発心し、上求菩提・下化衆生の誓願を立てれば菩薩となり、そして菩薩道を行ずれば平等に成仏が叶うと説きますから、法華経の修行者とは菩薩行を実践する人といえるわけです。法華経の『如来寿量品第十六』には「我本行菩薩道」(我れ本菩薩の道を行じて)と説かれており、釈尊も久遠の過去世に菩薩の道を行じて成仏したと仰せです。
また釈尊は滅後この法華経を弘通する者を募られますが、付嘱が授けられたのは上行菩薩を上首とする地涌の菩薩であります。広義では法華経を受持する者を法華経の行者といいましたが、末法という時代に於て法華経の行者とは地涌の菩薩の流類なのであります。
相武山 執事
2023年10月25日
《御宝前お飾り》
令和5年度の日蓮大聖人御会式を10月14日(土)、15日(日)の両日にわたって奉修しました。9月から檀信徒有志の方々と御宝前荘厳のサクラの花をつくり、10月1日には境内堂宇を有志の皆さまと浄めて当日の御会式を迎えた次第です。お飾りとお供えの餅はここ数年のように、かつて和菓子職人であった小原さんと執事の興厳房の手作り。11日(水)、半日かけて小原さんと興厳房がお餅をつき仕上げました。小原さんのご指導宜しく興厳房も腕を上げているようですが未だまだ向上の余地も残しているようで、今後の充実が楽しみです。
無事にお供え餅と飾り餅もできあがり、果物や杉の葉などの準備をして御宝前のお飾りです。近年は御逮夜法要の前にお飾りをして、小憩後にお手伝い頂いた檀信徒の方々を中心に御逮夜法要を執り行っています。
午後1時からのお飾りは事前に御宝前前机の両側に飾り台を設え、台座に胴藁の支柱を立てて置きました。はじめに胴藁に竿餅と飾り棒を法輪をかたどった胴帯で締め、その上部に、柿とみかんを置き、三角餅、手餅、あられ餅、などを飾ります、上部の周囲には杉の葉とシキミを入れ、最上部に皆さん手作りの桜の花を立てて荘厳。最後に台座の周囲を山折り半紙でかこみ、約1時間でお飾りは完成しました。
《御逮夜法要》
14日(土)午後3時から御会式の前夜祭となる御逮夜法要を奉修。以前は夕闇のせまる午後6時頃からの開式でしたが、近年はお飾り後、引き続いての開式としています。これは現在の妙法院では参詣者がバス停からの夜道(徒歩3分ほど)に不安を覚えるのではないかと懸念してのことです。
少し早めの御逮夜法要には約30名の檀信徒が参詣。コロナ禍で参詣者が少なかった昨年までよりは多くの方に参詣頂きうれしく思いました。今年はご案内のハガキをお届けしたこともありますが、やはり新型コロナが感染症5類に変更されたことによるものと思います。
法要は荘厳された御宝前に参詣されたご信徒を迎えて定刻に開式。如法(仏の教法にかなっていること)に法華経要品(方便品、寿量品長行)を読誦、献香(仏祖三宝尊に香を献ずること)、自我偈の前で磬一打、まず、執事の興厳房が第九世日有上人の申状を奉読。続いて住職が『立正安国論』を奉読。自我偈の読経は訓読。勤行時のように音読ではありませんが、妙法院では折々に自我偈を訓読していることもあり、皆さんあまり戸惑う様子はなく朗々とお読みになっていました。その後、法華本門のお題目をお唱えし、報恩感謝の誠をささげました。
法要後の住職挨拶では、御会式が日蓮の門弟にとって重要な意義を持っていること。また、日蓮大聖人の教えが大乗仏教の根本精神である「現実世界を直視して仏道の修行に励み、まことの幸いを味わうこと」にあると解説。御会式を好機に日蓮が弟子との自覚に立って倶に精進しようとのべられました。
《御正当法要》
御会式の法筵を浄めるかのような降雨も朝方には上がり、静かで穏やかな気配の中で御正当法要を迎えました。今年は4年ぶりに教区の僧侶もご臨席。法会には約40名の檀信徒が参詣。開式10分前には司会進行の阿部一博さんによる「御会式の意義について」。参詣者一同、式次第の裏にプリントされている御会式の解説文を確認しました。
法要は司会のことばで定刻に開式。参詣者唱題の裡に住職が御宝前に進み、仏祖三宝尊への献膳。続いて法華経要品の読誦、参列僧侶の献香、教区僧侶による御先師の申状奉読、住職による『立正安国論』の奉読がなされ、自我偈は御逮夜法要同様に訓読でなされました。
法要後の講演は当山執事の興厳房。講題は「法華経の行者として生きる」でした。
はじめに御会式の意義について略述し、次に『撰時抄』や『土木殿御返事』を引いて日蓮大聖人が末法の法華経の行者であることを解説。その御自覚と振る舞いは「身・口・意の三業にわたってお題目を唱える」ものであり、私たち門弟はその道しるべをしっかりと見据えて仏道を歩んで行こうと講演。
その内容としては「末法の法華経の行者とは地涌の菩薩。修行の相は不軽菩薩がお手本。不軽菩薩と日蓮大聖人。法華経の行者としての生き方」を解説。最後に『諌暁八幡抄』の「末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此れなり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ」を拝読し講演を結ばれました。
(詳細は相武山だより11月号をご覧ください)
講演後には新倉昇三さんが講頭挨拶。「愚かな凡夫の身としては、身・口・意の三業にわたってお題目を唱えることは難しいが、少しでも大聖人様の御心に近づけるよう精進したい。菩提寺である妙法院を仏道の依所としてしっかりと外護して行こう」と述べました。
住職挨拶では「日蓮の門弟は法華信仰を人生に活かして行かねばなりません。仏法を学び修めて如何に活かすかは各自の生涯の課題。法華経や日蓮大聖人の教えには人生の宝となる教えが豊かに説かれている。仏法信仰にご縁を結ばなければ三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)に流され侵されたような人生に陥りやすい、仏法信仰は三毒をコントロールするもの。あらゆる価値は心から生ずるが、その心は善悪の外縁に振り回されやすい、宗祖は『心の師とはなるとも心を師とせざれ』とご教示。心を修めるためには、仏法の真理を顕す御本尊を拝し、仏法の智慧であるお題目を唱えて我が心を磨き上げることが肝要」と述べました。
法要の時間が長くなりましたが最後は「お花くずし」。太鼓に合わせて参詣者がお題目を唱和するなか、御宝前のお供物が下げられ、荘厳のさくらの花がくずされます。下げられたお供物(らくがん、りんご、かき、みかん、餅など)は帰路につく参詣者に、さくらの花と一緒に振る舞われました。
※落雁は鹿児島市の上行院さまからのお供えでした。
コロナ禍前に比すると参詣者が少ない気もしますが、時間外に参詣されたご信徒もおられるなど、いつもながらに檀信徒の皆さんのまじめなご信心にふれることのできた御会式でした。今年も無事厳かに執り行うことができたことを住職として心より感謝しています。
相武山 山主
2023年10月22日